ずっとVacation

毎日やっていくぞ

ちゃんとしないと死ぬのか(死なない社会であれ!)

 トリプルファイヤーの「ちゃんとしないと死ぬ」という曲を、学生時代はよく聴いていた。最近は新しい人間と出会ったり、依頼した業者の思わぬハプニングが続いていて、気落ちしている時に、脳内でふたたびこの曲が流れるようになった。

 

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 「ちゃんとしないと死ぬ」という脅迫感の中で生きている時間が思春期ではままあったが、それを成人してからも、やや引きずっている気がする。マイペースで人に合わせるのが苦手。誰かといるよりも自分といる方がすき。そんな自分を中高で貫き通すことができず、過剰適応で乗りきった。「ちゃんとしないと死ぬ」。そんなわけないと思っているのに、このコミュニティから疎外されるかもしれないと不安でどうしようもない。学生時代なんてもう昔もいいところなのに、いまでも当時の不安が蘇ってくることがある。大抵は人前でうまく喋れなかったとかそういうのだ。最近だと大学院の口頭試問がそれに該当する。終わった後、結構な期間、悶々としてベットの中でもがいたりしていた。30代になってだいぶ見苦しいが、生きるとはそういうことなのだ。自分への期待値が高いのではないか、と配偶者には指摘されたが、おそらくそうなのだと思う。病になり、普通のレールから外れた今も、「ちゃんとしないといけない」という固定観念がわたしの中にはうっすらのこっているのかもしれない。気落ちしていると、脳内の誰かが「ちゃんとしないと死ぬ」と歌い出す。


 しかしながら、年をとってよかったことといえば、リアルタイムで聴いていた時は、「ちゃんとしないと死ぬからなあ!」と恐怖に慄きつつ震えていたが、そこから10年近く経って、ふと我に帰ると、「案外ちゃんとしなくても死なないしなあ!」と思えるようになったことかもしれない。それは学校という世界を飛び出して、ちゃんとしている人もちゃんとしていない人もたくさんいる場所で自分が歩んできたからだろう。
 以前わたしが住んでいた東京の下町は、カオスといって差し支えないほどの場所であり、商店街にはぼったくりの自然食品を高齢者相手に売るお店と、謎の何を売っているのかわからない小物屋と、夏には日サロ代をケチるため半裸で出歩いているおじさんが大量に溢れていた。引っ越してきた当初はその混沌さに圧倒され、「ここには長く住めない!」と泣き喚いていたが、徐々に適応し、アディダスとナイキの柄がド派手に入った服をてんでバラバラに上下で合わせるという禁忌をおかしてもなんとも思わないくらい適当な人間になった。圧倒的成長である。わたしには、その良い意味での適当さ、カオスさがかえって居心地よくなっていたのだ。


 その街でわたしが受け取ったことは、「ちゃんとしてなくても生きていていいのだ」という圧倒的な承認だった。「ちゃんとしなくてもいい」「ちゃんとしなくても存在してもいい」という下町のおおらかさが、わたしの凝り固まった世界を溶かしたのだと思う。「ちゃんとしなくても死なないじゃん!」という気づきは、どんな人間がいてもいいのだという多様性に根ざしていた。実際、家のほど近いところにインターナショナルスクールが何軒か存在していたし、外国人の居住者も多い地区だったのもある。他にも大規模な団地や、残留孤児の人々を診察する病院などがあり、さまざまな国籍や人種に開かれていた土地だった。


 もちろん、負の歴史も過去にはあったがそれについてはここでは言及しない。しかし、この多様性に開かれた場所で、タワマンと団地と戸建てと商店、さまざまな人々がいる場所で過ごすのは、人々との摩擦を感じつつも、「どんな自分であってもよい」という承認を感じられて好きだった。「ちゃんとしなくても死なない!」という自信を与えてくれた。


 時折、こうして自信をなくして「あー自分だめだー。」「やっぱりちゃんとしないと死ぬのか?」と思う時もあるが、あの街に流れていた、清濁合わせ飲む混沌とした空気を思い出したら急にあたまがすっきりしてくる。あ、ちゃんとしなくても死なないのだ、と自分を立て直せるから不思議だ。ちゃんとしなくても死なないのだ。大丈夫、大丈夫。


 「ちゃんとしないと死ぬ」という内面化された規範をぶち壊すためには、「ちゃんとしななくても死なないんだ」と思わせてくれるような人々や文化と出会うことがわたしにとっては大切だったみたいだ。ちゃんとしなくても死なない社会の中で、これからも生きていくんだ。そのために、自分も時として「異邦人」となることを恐れない。「異邦人」であることがコミュニティにとって良い方向で働いているということをもっと自覚すべきなのだろう。なんて思った。異質であることもプラスに受け入れよう。

部屋に無駄なものを置く。ーモビールを飾るー

 引っ越しをして自室ができた。数年ぶりの自室である。

 わたしは実家でも長いこと自室がなかった。自分のスペースがないから、学生時代は家族が寝静まった夜中に起きて勉強や友人とのやりとりをしていた。ひとりになりたいときはトイレにこもっていた。だからこそ、わたしにとって「自分の部屋」には甘美な響きがある。自分の部屋ができたことで、自由にブログも書けるし、好きなアイドルのMVだって堂々と流せる。自分の部屋だから。インテリアだって自分好みに変えちゃえる。誰の許可もいらない、だって自分の部屋だから〜!

 ということで、部屋を自分好みのインテリアに少しずつ改造している。その中でもわたしが一番大事にしているのが、「一見すると役に立たない、無駄なものを置く」である。

 そのなかでも、最近、部屋に仲間入りしたものなかで一番のお気に入りは、tempoのモビールである。

 

www.t-e-m-p-o.com

 

 モビールというもの自体にあまり馴染みがない人もいると思う。モビールとは、紙や金属を糸などで吊りディスプレイする、いわば動く彫刻のようなもの。フランス語の「mobile」(移動)が語源なのだとか。窓から入る風や人が動いて起こる、ほんのわずかな空気の流れで、ゆらゆらと揺れるのがその特徴。動く彫刻とある通り、そのまま飾って、動きを眺めるため、だけのものである。特に何かの役に立つわけではない。

 モビールという存在を知ったときに、「なんて無駄で、美しいんだ!!」と思った。わたしがやりたいこと、愛したいもの、大事にしたいものはこれじゃないか。ふらりと入ったJOURNAL STANDARD FURNITUREでtempoの置き型のモビールに出会い、ふわふわ動いているだけのソレに惹かれた。これなんだろう。そこからインターネットで検索し、吊るすタイプのものがあると知る。いつか必ず飾りたい……!!そして今回、その願いを、自室ができたことで叶えることができた。

 

 

自室にあるtempo perfect instance

 

うまく自室のモビールの動画が貼れなかったので、参考動画をYoutubeから転載します。

youtu.be

 

 tempoのモビールは、海外や日本のデザインスタジオがデザインしているハイセンスなものばかりで悩み放題である。が、わたしはコンセプトが一番気に入った、このperfect instanceを購入することにした。

 perfect instanceのこの2枚のプレートは、風で揺れても絶対に交わることはない。中央の水平のバーにより、この2枚のプレートが絶妙に触れ合わない距離を調整しているとのこと。この円の形のプレートは、風でゆらゆらと近づきはすれども、絶対に!お互いに交わらないのだ。

 このperfect instance(完全な距離)というタイトルは、「私」と、絶対的に他者であるところの「他者そのもの」を表しているようで、運命的な出会いを感じて購入を決めた。どんなに近くにいても、私は私だし、他人(他者)は他人(他者)なのだ。触れ合うことも、交わることもない。お互いを認識すれどもあれ、混じることはない。この距離感がとても素敵だと思ったのだ。

 今は、PC作業台の真横に設置して、時折このモビールを眺めている。暑い時はエアコンや扇風機を回して風を作ってみて、ゆれているのを観察してみたり。このモビールを眺めていると不思議と落ち着くし、こういう時間があるのは非常に豊かなことだと感じる。

 賃金労働をしていると自分の労働時間を数えてお金に換算してみたり、「有意義なことをやらないと!」と気を休まらない。わたしはそういうタイプだ。だからこそ、部屋にこういう、「無駄だけど、心が豊かになる」ものがあると、安心する。ほっとするのだ。

 赤い公園の津野米咲さんが作詞作曲をし楽曲提供した、SMAPのJOYという曲がある。わたしはこの曲の歌詞で大好きなフレーズがある。

 

「無駄なことを 一緒にしようよ 忘れかけていた魔法とは つまり JOY !! JOY!!」

 資本主義社会に適応しようと努力しすぎると、無駄なことを生活から切り捨ててばかりになってしまうので、無駄なことを楽しむ心持ちをすり減らさないようにしよう。tempoのモビールだけでなく、自室にある「一見すると無駄なものたち」は、わたしに楽しむ気持ちを思い出させてくれる魔法なのだと思う。

 

 

救命講習に参加し、心配蘇生について学んだ

 夏の終わり。まだまだ残暑が厳しいタイミングで、数ヶ月前から予約していた、自治体の救命講習に参加してきた。

 車や百貨店、公民館などに置いてある、AEDの機械。祖母が一人暮らしの家で倒れていた時に、あの機械を使ってもらったことがある。残念ながら祖母はそのまま亡くなってしまったけれど、あのときAEDの機械を持って駆けつけてくれた近所の人の姿はまだ脳裏にこびりついている。自分は傍らでなにもできなかったから、いつかは使い方を覚えたい。ただ、忙しさにかまけてそのままにしていた。
そんな折、ブログを購読しているブロガーさんの記事を読んで、自分もこの機会にやってみよう!と思い立った。人生はこういう、蜘蛛の糸が垂れてきたときに掴む力も必要だ!きっかけをつかんでいこう。

www.caponcap.work

 

 普通救命講習は約3時間。座学の時間も含まれるが、後半は人形とAED本体を使った実技の時間なのであっという間だった。救命処置の基礎知識と、胸椎圧迫や人工呼吸のやり方について教わる。いまは人工呼吸に関しては、経口から他の病気が感染する可能性もあるので、「できる場合だけ、行う」というようなスタンスらしい。人形と人工呼吸の練習をする場合や、実生活でも使えるような、口を直接、接触させずに人工呼吸できるアイテムが配られた。

中に入っている透明のシートを広げて、口に被せて使う。

 人形相手に胸椎圧迫を続けて何ターンか行ったが、かなり体力を使う。実際、心肺が復活した後に検査をすると、胸椎圧迫の時に力がかかったせいで肋骨を骨折していた、という方もいるそう。確かにこれは行う方も行われる方も、かなり力を使うぞ。
 他の参加者の様子も観察するタイミングがあったが、女性はみな大変そうだった。実際、胸椎圧迫を行う場合は2,3人で交代しながらやるのがよさそう。

 

ついに普通救命講習修了証をゲット

 自分は、社会に対して何ができるのだろう……と考えたときに、「〇〇やってます!」と胸を張って言えるような貢献活動がひとつもない、と思っていたけど、救命講習を受講して、こういうのでいいんだよな、と思うきっかけになった。いつ役に立つかわからない知識だけど、頭の片隅に入れておけば誰かを救えるかもしれない。そういう志で受講している人がこんなにいるんだな、と会場を見渡して、「人間ってまだまだ捨てたもんじゃないなー」と明るい気持ちで家に帰った。
救命講習は定期的な受講を推奨しているので、毎年時間をつくって受講するぞ。

墓地で迷って、ヘテロトピアを感じる

毎週ブログ更新を頑張ろう!と今年の初めは意気込んでいたのに、久々の更新となってしまった。試験勉強とブログ更新の両立はまだ体力的にむずかしいみたい。

ということで、予定していたあらゆる試験が8月末に終わり、ほっと一息つけたこの数週間。試験が終わった息抜きに、谷中霊園の方まで散歩して、全生庵の幽霊画展でも観に行こうか、と思い立った。日暮里駅から歩けば、馬賊の冷やし中華も美味しくいただける。自宅にこもりきりで作業と仕事、体調管理を反復していた日々を過ごしていたから、良いリフレッシュになるだろうと家を出た。

 

馬賊冷やし。具がもりもりで美味しかった。

 

谷中霊園を通過していく道すがら、最近読んだミッシェル・フーコーの『ユートピア的身体/ヘテロトピア』について反芻していた。

フーコーは、ベンサムが考案した監獄(パノプティコン)における、身体を統御し内的な監視として働くシステムについて言及した思想家であるが、彼が監獄だけでなく、場所(空間といった方が適切かもしれない)に関して思索を深めていたということをこの本を読むまで知らなかった。フーコーは、他のすべての空間への異議申し立てとして存在する場所を、ユートピアではなく、「ヘテロトピア」と呼び、以下のように定義している。

 

「ヘテロトピアとは他のすべての空間への異議申し立てであり、それは二つの仕方で異議申し立てを行使することができる。(中略)他のすべての現実を幻想として告発するような幻想を作り出すか、あるいは反対に、私たちの現実が無秩序で、うまく配置されておらず、混乱したものである分だけ、それに反して、完全で、仔細で、整った別の現実空間を現実的に作り出すことによってである。」

(ミシェル・フーコー, 佐藤嘉幸訳, 『ユートピア的身体/ヘテロトピア』, 水声社,2013年, pp.48-49)

 

 フーコーの述べるヘテロトピアとは、わたしたちが普段生活を営んでいる場所とは絶対的に異なる、幻想、あるいは反対に、全く違う種類の現実、を作り上げている場所だと述べている。具体的に言えば、監獄や、売春宿、そして、死者の場所として機能している墓地などがヘテロトピアとして挙げられる。
このようなヘテロトピアと呼ばれる場所は、私たちが自明のものとして受け入れられている場所・空間に対する批判であり、私たちの身体を統制・管理しようという既存の権力に対する抵抗の場として機能する。

例えば、墓地。墓地は死者が眠る場所である。訪れた者は、喧騒を離れ、静かな空間で死を悼む。メメントモリ(死を思え)という言葉もあるが、墓参りに行くたびに、埋葬されている者の不在と、いつか終わりが来るであろう自分の死について想いを巡らすことになる。自分や他者の死について考えることそれ自体が、日常からの逸脱であり、自分が当たり前のように感じていた現実を幻想のように感じさせる体験となる。自分や近しいものの死を感じることが頻繁にあれば、スマホの画面を四六時中見つめて続けて人生の時間を無駄遣いすることもなくなるかもしれない。自分がいつか死ぬとわかっていれば、働きたくない会社でイヤイヤ働くこともやめられるかもしれない。死を感じることは、それまでの自分が生きていた場所・空間を一歩引いた目線で見ることになる。それはある種の、既存の権力に対する「抵抗」となる。

 フーコーによれば、墓地は、ヨーロッパでは18世紀まで、都市の中心部におかれ、荘厳な価値もなく、ただ単に死体が投げ込まれる場所として存在していた。しかしナポレオン帝政下において、個人の遺骸は神聖なものとして価値が付与され、墓地それ自体が街の外・都市の境界におかれるようになった。死を思い起こす場所としての墓地は、わたしたちの日常生活から閉ざされた場所に置かれるようになったのだ。
 死を思い起こす場所を遠ざけることで、時の権力者たちは私たちの身体を制御し、管理しやすくしようとしたのかもしれない。死ぬとわかっていたら、戦争なんかに赴かない。道理の通らないことをいう権力者のいうことなんて聞かない。熱狂を起こして、人を管理する。そのために墓地を遠ざけたことは、きっと権力者たちにとってプラスの意味があるのだろう、と感じた。

 日暮里駅から紅葉坂を登っていくと、すぐ谷中霊園の敷地に入る。インバウンドの観光客にもこのスポットが見つかっているのか、平日の日中にも関わらず、さまざまな国籍の人とすれ違った。夏の終わりの谷中霊園は、幸いにも雲がかかっていて、やや涼しかった。せっかく久々に来たのだから、谷中霊園に埋葬されている徳川慶喜の墓にでも参ろうか、と思って、小道の方まで足を伸ばして墓地の区画に入ってゆく。
霊園の大通りを離れれば、すぐ人がいなくなる。あたり一面墓石しかない(当たり前だ)。
日中の昼間とはいえ、人がいなくて、曇り空だ。たどり着くのだろうかと不安になりながらも、道案内の表示に従って進む。
 ……奥に進んだら本当に人がいなくなってしまった。自分だけが取り残されたようでなんだか怖い。昼間なのに。わたしは果たして、元の場所に戻れるだろうか。大きくなっていく不安を感じつつ、これがフーコーの言っていたヘテロトピアか……なんて頭の片隅で考えていた。自分が当たり前のように受け入れていた現実とは全く異なる現実。あるいは、完全に作り込まれている幻想。墓地はそのどちらでもあるような気がする。そしてわたしは自分がまったく違う世界に迷い込んでしまったように感じた。周りにわたし以外だれも生きている人間の気配がしない。墓だから当たり前だけど。この異様さが怖くなった。

 ふと空を見上げて、周りの景色を見渡してみる。数十メートル先に民家の密集地帯が見えた。よおく見てみたら、2階のベランダで人が洗濯物を干している!おばさんの所帯じみた動作に安堵して、なんだかほっとした。もし途中でどうしようもなくなったらあの民家の方に歩こう。きっとどこかに出口があるだろう。数分前が嘘みたいに、気分は途端に明るくなった。
 そのあとどうにかこうして徳川慶喜の墓にまで辿り着き、そっと手を合わせた。慶喜の墓の周りだけ怖くなかった。しかし帰る時には必ず通る、墓がたくさん並ぶ小道がやはり怖い。なんとなく帰り道はわかったので、そのまま大通りまで早足で突っ切った。

 やはり墓地はヘテロトピアである。そして、既存の場所に対する「異議申し立て」でもある。わたしは、全生庵に向かって歩きながら「日常」に戻れたことに安堵していた。そして、谷中霊園に行く前と後では、自分の心持ちがだいぶ変わっていることに気がついていた。
 たくさんの墓に囲まれ迷っていた時、目に見えない存在への畏怖を感じた。わたしは、実態も正体もよくわからない、だけども、「神的なもの」を信じる性質である。幽霊もいる……かもしれないと感じている。霊園では、日常とは異質なものの存在を感じ、慄き、そして不安になった。日常生活で感じているものとは別種の、異なる緊張が生まれていた。
 死者だけが眠る墓地という場所で、自分だけが生きている者として土を踏み締めていたからだろうか。死者のための場所で、わたしはマイノリティだった。海外旅行で、おぼつかない英語しか頼れるものがないときの不安さ、朧げさと同じ感情を味わった。10年前はGoogleマップだってロクに使えなかった。そういった環境で異邦人として土地を歩くことに似た不安定さを、日本にいながらにして味わった。自分の思い通りにいかない、焦りと緊張。なじみの場所ばかり歩いていたら感じられないことだ。そのような場では、洗濯物おばちゃんに遭遇したように、意図しない未来が急に飛び出てくるかもしれない。予測不可能性の上で足を進めることのドキドキと不安。

 日常に戻った今、そういった体験がいまの自分の見ている世界を少しだけ豊かにしているような気がするのだ。単調で予定調和ではない未来がきっとどこかにあって、それは巧妙に隠されている。未知なもの、見えないもの、普段は意識をしていないもの。そういった場所で、自分が生きてきた時間軸や環境とは異なるところで息を吸ったり吐いたり、迷ったり迷わなかったりしてみる。そういったことが、自分のそれまで・それからを実りのあるものにする糸口になっているのかもしれない。

ちなみに、わたしは、学生の頃大学に馴染めなくて辛かった時期に、雑司ヶ谷の霊園を散歩しにいったことがある。そこは大学の講義室のような騒々しさとはかけ離れた静謐さに満ちていて、散策しているだけで不思議と心が落ち着いた。死者が眠る場所は、わたしを受け入れるでもなく、しかし拒絶するでもなく、ただそこに在った。それが心地よかったのかもしれない。大学では自分の居場所がないと感じていたから、自分がいてもいいと思える場所を見つけて、少し嬉しかった。これがヘテロトピアの効用のひとつなのかもしれない。

 

 その後。かねてからずっと興味のあった、東京は谷中にある全生庵の幽霊画展を観に行った。ここの幽霊画コレクションは、落語家の三遊亭圓朝がコレクションしているものである。三遊亭圓朝といえば、数多くの新作(創作)落語でも有名であり、人情噺の「芝浜」以外にも『死神』や『真景累ヶ淵』『怪談乳房榎』などの怪談ものの作者としても知られている。本人は落語だけでなく、絵を嗜んだり禅にも関心があった。そういった縁から、墓は谷中の全生庵にあり、彼の秘蔵のコレクションも保管されているというわけらしい。

https://zenshoan.com/yuureiga\_goaisatsu/

 毎年8月1日から31日までの1ヶ月、彼の幽霊画のコレクションが公開されている。2015年に幽霊画コレクションのことを知ってから長い間行きたいと思っていたので11年越しの夢が叶ったことになる。
 展示を見て満足して帰った。もう一度谷中霊園を通ってみようかと、後ろを振り返ったけど、幽霊画を見たあとにお墓に行ったら本当に「何か」感じてしまう気がする。もう一度行くのは怖い怖い、と谷中を後にした。

ご自愛お買い物記録−2026年上半期に買ったもの−

今思い返すと、2025年は疲れきっていた。予期せぬトラブルが連発し、一年のうちに二度の引越し。住んでいた場所も引き払って、新しい居住地を探した。引越し、家探し、荷造りと、私生活のタスクに追われて、ストレスから持病も悪化。「無理はしない」をモットーに生活しているのに、無理をしないと乗り切れない一年だった。

2026年は心機一転、ようやく落ち着いた新居でご自愛して暮らしていきたい。昨年の過ごし方の反省もあったのか、毎月、ご自愛グッズを自分にプレゼントすることにした。

ここですこしわたしの買い物スタイルについてお話ししよう。
わたしは普段、どんなに安い雑貨であっても、ものを買う時は時は熟考し、自分に「必要」だと思えたら財布を出すようにしている。即断即決は苦手。1000円の雑貨でも結構悩む。
「これ以上悩めない!絶対必要!」と思えるまで考えるようにしているので、悩んでいる間に物欲自体がなくなっていることがほとんとだ。これは実家があまり裕福ではなかったのも影響しているのかもしれないし、悩むという選択肢を取れば、とりあえず決断を先送りにできるという逃げ腰な姿勢が背後に潜んでいるのもあるだろう。

そんな自分が、自分自身のために、本当は欲しいけど「無駄だしな……」と思いながら買うのを先延ばしにしていたもの、自分が心から喜ばせられるものを買うというのはなかなかチャレンジングなことだった。でも正直2026年の1月から心身ともに疲れて果てていたし、すこしでも買い物でテンションがage↑↑↑にならないとこれからまた1年間を乗り切れないぜ……とも思っていた。人間、気力と体力が一番大事なんだ。力をチャージするために、自分を少しくらい甘やかしたっていいじゃないか。
ということで、自分のために買ったものー2026年上半期!ーを紹介していきます。「買ってよかった」と書かないのは、自分のために買うと決めた時点で、その使い心地が良かろうが悪かろうが、自分のために買うと決められて「よかったもの」だからです。よかったとか悪かったとか、そんなことよりも自分が欲しいものを買えたことをもっと祝福していこうぜ!!

uka ムーンシャイン トップコート

uka.co.jp

たまたまXのタイムラインで流れてきて、「ビビッ!」となり購入したUkaのトップコート。数年前にも販売されていたが、今年からまた復刻するとのこと。
商品の紹介文には「満月の夜は ネイルカラーを塗り 色々とよくばり自分を甘やかして
満月のパワーも味方に エネルギーを満たしてほしい」とあり、今の自分にぴったりだと思った。
忙しいとほとんど爪に色をのせなくなる。今年は爪にたくさん色を塗りたいぜ。。。


Wet Brush スピードドライ

 

 

行きつけの美容院でドライヤーが苦手で髪を乾かすのに時間がかかると相談したところ、ブラシを使いながら乾かすのがよいとアドバイスされ購入を決めた。
年々のプール通いで髪も痛み、ドライヤーも苦痛な作業になってきていたのだが、このブラシを使いながら髪を梳かすと思ったよりも早く乾かせる。
なによりも自分をケアしているという自己肯定感がage↑↑↑られる。ていねいな生活を送っているという自負が人間を強くするんだということに気づいたわけ。


イソップ ハーバルボディスプレー

www.aesop.co.jp

ずっと世間に対する逆張りで、購入はおろか、一度も店舗に足を踏み入れたこともなかったイソップ。しかし、昨年、ワの匂い対策としてイソップのロールオンが良いと聞き、逆張りを解除し、購入したところ、爽やかな香りが続いて夏も快適♩だった。そう、これが懐柔である。香りがハーバルでとても良い。無印良品のアロマ売り場の香りをすべてまとめたみたいな……。
今年は、ロールオンに合わせてイソップのボディスプレーも使用し、さらなる清潔感の高みに登りたい。
……うーん、やっぱりいい香りです。


THREE ネイル No.18 SKY LAW

www.threecosmetics.com


ずっとTHREEのネイルが欲しかった。でも、買うのを先延ばしにしていた。
プールに入るとすぐネイルが剥がれるし、結局塗るのも面倒だから、なんとなく買うのを後回しにしていた。でもやっぱりコスメ売り場に行くと欲しくなる。いいじゃん、自分、買ってしまえ!
数ヶ月ぶりに祖母と会ったその日の帰り道、たまたま立ち寄った駅のコスメストアで買った。蒸し暑い、夏が来る前の思い出として、このネイルに閉じ込めておこうと思った。
Ukaのトップコートと合わせても良い感じ。THREEのネイルは色味が絶妙でかわいい。

 

COMME des GARÇONS COMME des GARÇONS 2026SS スカートっぽいショーツ

このルックのボトムスです。スカートっぽいけどパンツなの。

急に金額が高いもの出すじゃん!!って、この記事を読んでいる人はみんな思ったと思う。わたしも思った。
正直、ここに挙げるのはどうだろうと迷ったが、ずっと欲しかったけど、「今じゃない」と思って先延ばしにしていたもののひとつだったので、書くことにした。

COMME des GARÇONSはわたしの憧れのブランドである。学生時代からいつか全身ギャルソンでコーディネートをしてみたいと思っていた。
ここ数年、生活に余裕が出てきて買い揃えはじめてはいるが、いまひとつ心残りがある。それは、大学の卒業式のときに、COMME des GARÇONSの洋服を親に買ってもらえなかったことだ。いや、正確には自分から買ってもらうのを断ったのだが。

「卒業式くらい、いいお洋服をプレゼントしてあげるよ。」と母親がデパートのCOMME des GARÇONSの洋服を着ているマネキンを見てわたしに言ったのを今でも鮮明に思い出せる。母は、このブランドの服を着たいと言っていたのを知っていたらしい。一瞬ドキ、とした。しかし、当時は、実家との折り合いが悪く、両親に余計な貸しを作りたくなかった。「いいよ、うちそんなお金ないでしょ。」と断った。

マネキンが着ていたのはどんな服だったかは正直覚えていない。ただ、自分のハレの日を飾るような、リアルクローズとはかけ離れたイカつい格好だったことは覚えている。卒業式にはそもそも行く気がしなかったし。そんな言い訳をしてやり過ごした。まあ、結局、その年はコロナ禍に見舞われ、対面の卒業式自体が無くなり、卒業証書が宅配で配送されるという味気ないことになったのだが。

しかし、その時から、「やっぱり、あのとき買ってもらえればよかったなー」という気持ちがどこか胸の奥に残っていて消えないのだ。ギャルソンの服をいくつか店頭で買ったりもしたけれど、ギャルソンらしい、格好良いハレの日の服を着たいという気持ちはくすぶり続け、しこりのように残った。服を買うときも慎重なわたしは、COMME des GARÇONSの服だって、自分がリアルクローズとしてどれだけ着こなせるのか?を優先して購入を決断する。自分が着たい気持ちを一番に、後先考えずに格好良い服を買ってみたかったのだ。(しかし、それを実行するのにはCOMME des GARÇONSの服をちと、高い……)

こんな紆余曲折を経て、わたしはついに店頭で出会ってしまったのだ。COMME des GARÇONS COMME des GARÇONSのスカートのようなショートパンツに。アンドロギュナス(両性具有)のような中性的なデザインに射抜かれ、即購入を決めた。わたしがなりたいわたしはこのパンツを履いている、そう思ったからだ。

心踊るような購買体験だった。これぞまさにage↑↑↑である。一生かけて履き続けたい服に出会えたことが幸せだった。旅行くらい行ける値段だったが、自分の中に残り続けていた未消化な気持ちは成仏したみたいで、それからほとんど服を買わなくてよくなった。以前はよくCOMME des GARÇONSフリークな人たちのコーディネートをインスタグラムでチェックしていたが、途端に興味がなくなった。COMME des GARÇONSの服に対する執着も消えてしまったのかもしれない。(とかいいつつ、シーズンが来たら欲しくなっているのかもしれないけど)

お金を使って、本当に欲しいものを買う。その行為には、世界で唯一の自分のために、自分の欲望を満たしたいという気持ちが含まれている。お財布の範囲内で、自分にやさしく、自分を愛撫してあげよう。わたしは自分を満たして、今、すこしage↑↑↑な夏を過ごせているのかもしれない。

自炊訓練の記録6ー自分の欲望をカタチにする、自炊という行為ー

前回の記事からだいぶ間が空いてしまったが、相変わらずちょこちょこ時間を見つけて自分が食べたいと思う料理を自分のためにつくる、自炊訓練を続けている。

▼前回の記事

there-there.hatenablog.com

 

▼自炊訓練について

there-there.hatenablog.com

 

最近わたしが好んで作っているのは、新生姜で作る自家製ガリだ。

わたしはそもそも生姜が好き。家の冷蔵庫には生姜チューブと生姜を常に置いているし、炒め物にはだいたい生姜を入れれば味がととのうと思っている。料理を始めて一番最初に作ったレシピは生姜焼きだ。定食屋で食べるのもいいけれど、自宅で食べる生姜焼きも格別の美味しさがある。生姜のピリッとした味は癖になる。

これだけ生姜が好きなのに、自宅で新生姜を活用した料理を作ったことがなかった。だから、パラパラとめくった料理本の中に新生姜を使ったレシピを発見して、すぐさま作ることを決意したのだった。

 

都内某所のいきつけの喫茶店。そこでは夏だけ限定で、ガリトマトというメニューを出してくれる。一口サイズに切ったトマトにガリを乗せただけのシンプルな料理だがこれが美味しい。わたしはいつもそこに行くとこのガリトマトを頼んでしまう。

早速、自分で作ってみたガリをトマトにふりかけてみた。さっぱりしておいしい!

 

自家製ガリにトマトを添えて

一度作って食べたらハマってしまった。それから八百屋に赴いては新生姜を探し、700グラム以上買うことができたので、今日はしこたま生姜を剥いて仕込んでいた。甘酢は砂糖・酢・水を煮込むだけでできる。一番大変なのは、この、生姜を剥く作業なのだ。ピーラーを作ってひたすら剥いた。休み休みで2時間くらい。台風が接近していてやることも特にない。ちょうど良かった。

料理は、自分の欲望をカタチにする行為だ、とつくづく思う。料理をしているときはインターネットから離れられる。手元を見る作業なので、youtubeも漫画も真剣には読めない(動画なら流しっぱなしにできるが)。誰かの欲望から離れて、自分自身の「この料理を食べたい!」という欲求に向き合う時間。スマホやPCを触っていると必ず流れてくる、欲望を誘発するような広告から離れられる貴重な時間。

ここ最近、ドーパミンが出るコンテンツばかり楽しんでみてしまっている自分を若干顧みつつも、みんながみんなスマホに捉われている中、この、広告の流れない自分のための時間がとてつもなく価値のあるものになっているんじゃないか、なんて思った。

自分が何を求めているか察知してそれを一から作るという行為は、とんでもなく創造性に満ち溢れていて、自分の欲望に素直になる良い練習ではないだろうか。広告に流されて、誰かの欲望を自分の欲望かのように履き違えてものを消費せずに、自分の欲望、欲求にフォーカスできる。しかも、出来上がった後は、それを美味しく食べれるのだから最高だ。

自炊訓練で培ったこの創造性を、料理以外にも使っていけたらいいな。

自分の欲しいものは自分で作っていいのだ。誰かが用意してくれるわけではないから、自分で自分を楽しませていこう。

放送大学で学びを深めるために利用できる、役に立つサービスまとめ

私が放送大学の大学院修士選科生だとブログやSNSで書いたら、思っていたよりも反響があって驚きました。実はこのブログのアクセス先上位も放送大に関する記事。

関心の高さは、昨今のリスキリングの高まりもあるだろうし、放送大学なら授業の履修から学期末の試験まで、オンラインでほぼ完結できるスタイルなのも人気の理由かもしれないですね。わたし自身も仕事の合間や、移動時間中にラジオ講座を聴いているので手軽に続けやすいというのもあるでしょう。いや、ほんと、ラジオ講座は普段ラジオを聴く人なら手軽に聴けて便利便利。

ちなみにわたしは今年で在籍して二年目。二年間の在籍中に、放送大のさまざまな施設やサービスを利用したので、後進のために(!?)お役立ちサービスを以下にまとめてみたい。

 

教授と学習相談ができるぞ!ー客員教員による学習相談ー

放送大学(or大学院)に入学する際に、所属する学習センターを選ぶことができます。以前のブログにも書いたような気がしますが、この学習センター選び、適当に最寄りのセンターにするのではなく、気になる分野の教授が在籍しているところにすると実はいろいろ副産物として利用できるサービスがあるんです!!

そのひとつが、学習センターに所属する教員による学習相談。

客員教員による学習相談のお知らせ |東京文京学習センター

調べてみたらすべての学習センターで教員が相談に乗ってくれるわけではなく、一部の学習センターのみ(関東だと、東京文京学習センターや千葉学習センターなど)みたいですが、大学で教鞭を取ってきたその道の専門家の先生と30分、大学での学びについて相談できます。(※なお、教員はこちらから指定はできません。でも質問内容に対し、専門に近い先生が対応してくれるので「この先生に話を聴いてもらいたいなー」というのを狙って質問を記入して行くことは可能だと思います。)

私の所属する文京学習センターでは、特に人文、思想系の先生が強いです。フランス哲学の鈴木泉先生、美学では第一人者の小田部 胤久先生、『正法眼蔵入門』の著者の日本思想史の頼住 光子先生など。東大本郷か……?という充実ぶりです。

私が入学を決めた時期には、哲学界隈ではありえないペースで訳書を出していた熊野純彦先生も所属していました。すごすぎる、文京学習センター。

すぐ近くが東大ということもあり、文京学習センターは東大系の先生が多いです。これは文京センターだけでなく、千葉学習センターには千葉大の先生が、神奈川学習センターには横国の先生が赴任していることもあります。

私自身も一度、ある先生に自分の研究テーマや学習方法に関して相談しに行ったのですが、現役学生の時よりも先生としっかり研究テーマに関して意見を交換し、充実した30分間になりました。放送大学は、こちらが社会人ということで、先生とのコミュニケーションあまり権力関係を意識しないで済むのが良いところですよね。

先生もフラットにお話ししてくださったので本当に良い体験になりましたし、ぜひ、専門の先生に相談したい方は「客員教員による学習相談」を体験してみて欲しいです。

センターによっては対面、Zoomどちらでも対応してくださっているのもフレキシブルでいいですよね。

ちなみに、学習センターでは所属の教員の先生方が「自主ゼミ」「ミニゼミ」という形でゼミを開いていることもあります。平日に対面で開講しているゼミもありますが、土日にZoomで開いているものもあるので、自分の興味関心のある先生方がいる学習センターに所属になった方がいろいろと利用できるリソースがあります。調べてみてくださいねー。

 

研究テーマを絞りたい!ーレファレンスサービスを利用してみようー

研究テーマがデカすぎてどの文献から読んだらいいかわからないよーーー!思わず頭をかきむしりたくなる。そんな苦悩の時間、みなさんも一度は体験したことありますよね?

これには放送大学図書館のレファレンスサービス(参考調査申し込み)がオヌヌメ。必要な文献や情報の探し方について、放送大学附属図書館の司書さんが調べて回答してくれます。

サービス申込一覧|図書館を使う|放送大学附属図書館

現役学生のときは、レファレンスサービスを使ったことがなかったんですよね。ですので、どれくらい司書さんが丁寧に回答してくれるのかというのが皆目見当がつかなかったのですが、放送大の司書さんはみな丁寧!仕事がきめ細かい!

本当に在籍しているみなさんにぜひ一度は使ってもらいたいサービスの一つです。

わたし自身も研究計画書を書いている時に利用し、あまりにもまとまらない内容を書いたメールを司書さんが丁寧に解読して返答してくれました。自分では探しきれていない情報を、異なった角度から司書さんが打ち返してくれることもあります。

申し込みはメールもしくは郵送でできます。卒業研究or論文の製作、普段から興味があるテーマについてリサーチを頼むのも良いかもしれません。

 

結局このサービスを一番よく使う!ー資料の複写!!(論文取り寄せなど)ー

いままで列挙したサービスの中で、一番利用しているのがこの資料の複写サービスです。

図書館のサービス|図書館を使う|放送大学附属図書館

論文検索サイトで検索!→論文がオープンアクセスじゃなーい!ということはみなさん一度や二度じゃすまないくらい体験したと思いますが、大学に籍を置いていると資料の複写サービスを利用して論文を取り寄せしてもらえるんですねー。

これで日本で最新の研究成果を読むことが可能!なお、大学に籍を置いていなくても、国会図書館で資料を検索&複写することもできますが、遠方であったり仕事の予定、体調の都合などで国会図書館に頻繁に行けない方もいますよね。なんと、放送大学の図書館では複写した論文を郵送してくれるサービスが始まりました。(複写物の郵送サービス 放送大学附属図書館 )

これで学習センターまで複写物を受け取りに行く必要もなくなり、ますます便利になりました。すごい!らくちん!なおかつ、費用は白黒コピー代金と郵送代金くらいなのでリーズナブル。

私は何度も文献複写を依頼していますが、オープンアクセスで読むことのできる文献は複写謝絶にされてしまいますが、司書さんがURLも併せてメールで送ってくれて大変助かりました……。放送大学附属図書館は司書さんの仕事が丁寧です!本当に!

わたしもレポートやかしこまった文章を書く際の調査をする際に重宝しています。

 

まだ使ったことがないけれどー千葉の本部校に宿泊してみる?ー

まだ時期的には厳しいかな?とは思うのですが、なんと、放送大学は全国に学習センターがあるというのもあり、千葉・幕張の本部には宿泊できるセミナーハウスもあります。

放送大学セミナーハウス | 放送大学

なんと一泊、一番安い価格で2200円、高くても3600円で使えます。価格破壊!

遠方から東京や千葉本部での対面授業に参加する方はよくこの宿泊施設を利用しているみたいです。いくつか体験談なども探せば出てきますし、本部にある附属図書館を利用する名目で宿泊してみてはいかがでしょうか?

ちなみに私は実家が限りなく幕張に近いので、宿泊するという選択肢はなさそうですが、ゼミやサークル活動などで利用できたら楽しいかなーとは思っています……。興味がある方はぜひ。

さいごにー学割以外にも使えるサービスたくさんあるよ、放送大学ー

ということで、以上、私が放送大学に入学して活用しているサービス諸々を紹介しました。放送大学に入るメリットといえば、社会人なのに学割を利用できること。しかし、それ以外にも使えるサービスはたくさんあります!せっかく学費を払っているわけですから、サービスを活用して学びを充実させていきましょう!わっしょい!